八重山日報の記事

八重山日報が今回の校歌の件を掲載したようですが、あまりにも事実と違うことには呆れてしまいます。昨年に港区と石垣市の教育委員会同士で決着したように書かれているようですが、石垣市教委はペーパーを送ってきただけであり、何も決着はしていないことを港区の教育委員会に確認を致しました。それよりも私は港区の教育委員会と今後の対応について話をしていたわけですから、港区の教育委員会も八重山日報から一切の取材も無く、勝手に今回の記事を書かれてしまったことに呆れている状況です。高輪台小学校の篠原校長も、取材は受けたが全然違う話として書かれてしまっていると困惑されています。ほとんど一緒の歌詞であり、節まで一緒。歌には著作権があり、高輪台小の校歌を参考にしたとは、参考にして済む話とされている石垣市は著作権をどの様に考えておられるのでしょうか。昨年届いたペーパーには謝罪の文字も無く、ただこれからも歌っていきたいと言う趣旨でした。これでは、怒っている同窓生に伝えようがなく、今後の対応についても苦慮してしまっているのが現状でした。別の学校の校歌を勝手に歌詞だけを少しだけ変えて自校の校歌として、判明してから参考にしたで済む話なのでしょうか。石垣中の同窓生や生徒には何の責任もありません。歌い続けていきたいことでしょう。それをどう対応して歌い続けられるようにするかは石垣市の教育委員会の責任ではないのでしょうか。何とか着地点を見つけたいと思っておりましたが、より遠くなってしまったようです。

母校・港区立高輪台小学校 校歌の件について

母校・港区立高輪台小学校の校歌について、半年前に書いた私のブログが今になって石垣市の方々に伝わったようで、コメント等を頂戴しております。このブログを書いた時点では、石垣市教育委員会からは当時の校長同士でのやり取りであったような回答しか頂いておりませんでした。著作権がある校歌ですので、当時の校長にはそのような権限はなく、あり得ない話であります。その後に、港区教育委員会から再度の連絡を石垣市教育委員会へ入れたところ、石垣市教委よりペーパー二枚が送られてきて、それは看過しろとの内容でしかありませんでした。このことは同窓会役員までには伝えてあります。戦後間もない米国占領下の沖縄において、敗戦後の二年後に開校されたことを考えると、校歌を作れるような状況であったのかを考えさせられることも事実です。石垣中の在校生・同窓生には何も責任は無く、被害者であるとも思えます。責任は作詞者となっている当時の石垣中の校長と選曲者となっている音楽の先生の当時の対応にあると思っています。私たちの同窓生の中には、絶対に石垣中の校歌を替えてもらえと強く訴えておられる方も多いです。その中でより良い方向を見つけなければならないとは思っており、港区教育委員会へもこれからの対応をお願いしております。また、東京在住の石垣中出身の方にも良い解決方法をとお願いをしている次第です。石垣中の在校生・同窓生が歌い続けてきたように、我が高輪台小学校の在校生・同窓生もこの校歌を誇りに思い、歌い続けてきました。北原白秋作詞、山田耕作作曲の我が校歌は、私たち同窓生・在校生の誇りです。簡単にこのお二人に校歌を作って頂くことが出来る話ではありません。このままにしていて良いとは思ってはおりませんので、良い方向に進むよう、努力をしてまいります。そのことを石垣中の関係者の方々にもご理解を頂きたいと願います。

このブログにて、頂戴致しましたコメントへの返信とさせて頂きます。

付け加えさせて頂きますが、我が母校の港区立高輪台小学校同窓会は毎年5月に本校体育館にて同窓会を開催しております。それだけ母校に誇りを持っている卒業生が多く、毎年150名近い出席者となっています。