八重山毎日新聞の記事に残念

この記事はせっかくの友好ムードを壊してしまう残念な記事ですね。昨年のうちに市と区と小学校が文書で合意していたとの誤った記事。昨日の記者とのやりとりで、こんなことは石垣市側からも港区側からも発せられていない。宮良校長から謝罪の手紙を頂くまで、区と市の教育委員会で相当なやり取りがありました。その中での今回の訪問となりました。既に決着済みのことを掘り返したような記事は誤りです。

http://www.y-mainichi.co.jp/news/32145/

 

石垣市立石垣中学校を訪問して

一昨日、昨日と石垣市を訪問してまいりました。市役所にて中山市長、石垣教育長にお会いさせて頂き、その後、石垣中学へ向かいました。港区からは青木教育長、篠原高輪台小校長、小林指導主事と私の4名で伺いました。車を付けると正門前で宮良校長が出迎えて下さり、正門から玄関まで生徒が並んでいて、しかも私たちが正門を抜けると吹奏楽部による校歌の演奏と大歓迎をして頂きました。また、玄関前では校歌の披露にダンス等を披露して頂きました。              昨年の今頃になりますが校歌の酷似問題が発覚し、同窓会でも大問題になってしまいました。この間、両教育委員会で議論を重ねて頂きました。中々進まない時期もあり、また解決済みとの誤った報道も流れてしまい、その訂正のブログを書かせて頂いたりもしました。何故、節も一緒であり、出だしの歌詞から一緒の校歌が存在するのかが疑問であり、当時の校長が作詞者となっていることへの怒りは相当に強かったわけであります。しかしながら、戦後の米軍占領下の沖縄で、開校するにあたって校歌を作成出来ることが可能であったのか。そういった当時の現状を考えると同窓生の中で考え方が少しずつ変わってきたわけであります。在校生、卒業生に責任は無く、校歌を大事に歌ってきたのは一緒ではないのか。また、宮良石垣中学校長より謝罪のお手紙を頂戴し、それを同窓会総会において篠原校長より披露をしてもらい、同窓生の理解を求めたわけであります。であるならば、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の校歌として一緒に誇りを持って歌い継いでいこうではないかとの結論に至りました。校歌を歌えなくなってしまうのではと心配している在校生もいるのでないかと、早く伝えて上げようと今回の石垣中の訪問へと至ったわけであります。また、石垣へ出発する直前になりますが、石垣中の初代校長で校歌の作詞者である糸数用著氏が戦前に港区立高輪台小学校の教師であり、戦後に石垣に戻ったことが判明しました。これでどうやって終戦後の石垣へ高輪台の校歌が流れたのかが繋がったわけであります。糸数氏が行ったことは両校の教え子を裏切ることでもあり、教育者としては絶対にやってはならないことでありますが、高輪台小の在校生、卒業生、そして石垣中の在校生、卒業生も同じ被害者であると感じます。           これから同じ校歌を歌う学校としての交流が始まり、また、石垣市と港区の自治体間連携が始まり、友好が築かれていければと思います。これを機に前へ進んでいくように努力をしていくつもりです。